あけましておめでとうございます。
って、いつのことやねん!
と自分で突っ込むしかないこの放置度合い。
スミマセン。
それでも様子を見に来ていただいている方々もいらっしゃったようで、
更新を期待されていた方には、本当に申し訳ないことをしました。
これには、まぁいろいろと理由はあるのだけれど、
一番の原因は、年明けに受けた「人間ドッグ」の検査結果。
なんと、重大な要再検査項目が2つもついてしまったんです。
その後、昨日までに再検査を受け、結果、すべてシロ(健康)と判明したので、
以降、ここが「闘病ブログ」に変更になる、なんてことは免れたのだけれど、
この1ヶ月間は、生きた心地がしませんでした。
具体的に言っちゃえば、
「左腎臓に44㎜の腫瘍性病変の疑い」なんつー、
わが目、わが耳を疑うような結果をいただいたんですね、ハイ。
腫瘍といえば、良性・悪性でその内容は天と地の差があるけれど、
44㎜とはいずれにせよただではすまない響き。
目の前が真っ暗になりました。
「人間、いつかは死ぬ」
そんな当たり前のことを、大人になっていちいち考える人は少ないでしょう。
でも、これを実感をもって会得していらっしゃる方って、
そのうちどのくらいいるんでしょうか。
私に限って言えば、わかっていませんでした。
頭で知っていることと、理解する、ということは違うのですね。
突然、目の前に現れた「死」の陰に、
私の動揺は、極限近くにまで達しました。
それまで、私にとっての「死」は、人事だったんです。
その後、CTによる精密検査の結果、
私の左腎臓は、生来「ボコボコした形」だったようで、
腫瘍と疑われた「隆起部分」の成分は、
他の正常な部分とまったく同質だったとのこと。
…良性でも悪性でもなく、腫瘍そのものが存在しなかったんですね。
CT検査直前、「死」は目の前にまで迫ってきていましたが、
以後は、ピラン~と紙のようにはがれて、
鉛のような恐怖感とともに、どこかへ吹き飛ばされていきました。
でも。
その「吹き飛ばされた死」は、どこか彼方へ飛んでいったわけではなく、
再びピラン~と、私の背中に張り付いただけ。
そして、いつか、必ず、私の目の前に再び出現し、
今度こそ確実に襲ってくるのです。
わからないのは、それが「いつか」ということだけ。
それが、明日じゃないって、一体誰に言えるのだろう。
生きている以上、死は必ず訪れるもの。
こんな単純で考えるまでもない摂理に、足元をすくわれる。
考えるまでもない、んじゃなくて、考えたくないんじゃないかしら。
私は(仮)ではあったけれど、死のにおいを少し嗅いでしまった。
その味は、絶望という苦さがあった。
あれを飲み込むのは、とてもじゃないけど耐えられないとも思った。
けれど。
世の中には、突然、死の宣告をされる人もいる。
宣告すら受けられずに、取り上げられる人もいる。
もう人事ではない。
女性哲学者の池田晶子氏いわく、
病気や事故は「死の条件」であるだけで、
直接の死因は「この世に生まれてきたこと」だという。
生と死は表裏一体。
今、この瞬間、健やかに呼吸している背中で、
死も息をひそめて、その時を待っている。
逃げも隠れもできない。
女子供にだって、容赦なく襲ってくる。
それは、私たち人間も大自然の一部だからだ。
ならば。
私にとって、今回の「死」の表情は真っ黒だったけれど、
本当のところはどうなんだろう。
この世から消えることに恐怖しない人はいないと思うけれど、
それが宿命であるならば、両手を広げて受け入れたい。
と自分で言ってみて、本当にそんなことが可能かどうか疑ってみる。
しかし、それができたとき、死の表情は変わってくるに違いない。
いずれにせよ、今回「延命」したことで、
死とともに歩む時間が増えたのだ。
これまで無視してきたことを詫び、彼と向き合って生きていきたいと思う。
…少しだけ世の中が違って見えてきた気がしないこともないではない。
はっはっは。